Hotel Der Achtermann
とにかく、まあ、あたしゃ、このドイツ語の名前を見たとき、「ホテル・デ、デ、デ……」としか言えなかったのだ。
うちの父ちゃんは大学でフランス語とドイツ語をやったので、発音してみせてくれるのだが、何度聞いても、このボケ頭では覚えられない。
えーい、面倒くさい、ってんで、旅行中は「ほれ、あの、ホテル・デなんとか」ですべて通してきた。
が、今ここで、もう一度泊まりたい、いや、何度でも泊まりたいぞ、何なら住み込んでもいいぞ的ホテルをご紹介するのに、「ホテル・デなんとか」では、話にならん。
それで、またもや発音の教えを乞うて、なんとかカタカナに書きとめたのが、「ホテル・デア・アフテルマン」である。
ただし、これをそのまま日本語式に発音しても、通じるという保証はまったくございません。なにしろ、フランス語、ドイツ語、スペイン語、まあ、ほとんどの言語がそうだと思うが、日本語にない音があるので、カタカナで表現するのは不可能である。
それを、ものすっごーく無理をしてカタカナにしているのだから、保証の限りではないのだ。
なんといっても曲者なのが、Achtermannのchの発音。これが母音 a、o、u の後に来ると、喉の奥から強く息を吐き出す発音になって、「ハッ」とか「ホッ」とかに近い音になるそうな。
だから「アフテルマン」の「フ」は、日本語の「ふ」ではない。もうネ、口の中で「ただいま大型台風接近中! 暴風雨圏内に突入!」ぐらいの緊迫した強風を起こして、それを瞬時に吐き出すという至難のテクニックが要求される。
と、まあ、そんな大層なことじゃなくても、早い話が、盛大に「ハックショーン!」てやるときの、「ハッ」、あの感じでよろしいのでは? くしゃみってのはかなりの風速があるそうですからな。
さてさて、わたしが一目惚れしてしまったこのホテルは、父ちゃんが、イギリスからベルリンへのドライブ旅行のルートを検索しているときに、偶然みつけた。
ミシュランに、ルート検索の非常に便利なサイトがあって、出発地点と到着地点の住所を入力すると、たちどころに、オススメの最短ルートをはじき出してくれる。しかも、最新の道路工事情報も、バッチリとぬかりはない。
イギリスのわが家からユーロトンネルまで、約40分。車ごと電車に乗り込んで、電車がトンネルを抜けてフランスのカレーに着くのに35分。
そしてカレーからベルリンまで、およそ1000キロ、時間にして10時間かかる。しかし、1000キロを一日でぶっ飛ばすのはシンドイ。
そこで、そのルートの途中で一泊して観光できる町はないかと探すと、なんでも、ランメルスベルク鉱山と古都ゴスラーが、ユネスコの世界遺産に登録されているという。
おっ、世界遺産か。いいね、いいね。よっしゃ、そこに泊まろう。
それにしても、ゴスラーって、なんや、モスラのオヤジみたいな名前やなあ。
わたしたちがドライブ旅行で利用するのは、たいてい田舎の民宿である。安いし、土地の人々の暮らしを垣間見る面白さがある。だから、高級ホテルにはあまり縁がない。
ところが、旅行初日は、一日のうちのほとんどを移動のために使うことになるので、いささか運転手も疲れる。だから、そういう行程の日だけはちょっと贅沢をして、できるだけ快適な宿を取ることにした。
デア・アフテルマンのダブルの部屋は、一泊124ユーロ(約17,000円)。四つ星のホテルでこの値段は、高くない。
世界遺産の町ゴスラーで、中世の時代にドイツ皇帝の城館として使われていたという、歴史的建造物に泊まるのも、また一興だろう。
早朝6時にわが家を出て、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを経ての長いドライブのあと、ゴスラーの街に着いた。このあたりはドイツのほぼ中央、ベルリンへは車で3時間の距離である。
木骨建築の家屋が並ぶ旧市街で、一方通行の通りで迷った末に、やっとあの目印の、いかつい石造りの中世の塔のあるホテルにたどりついた。
チェックインして、二階の部屋に入った。通りに面した広い部屋は、スッキリとモダンなインテリア。ベッドの上には、まるで日本の座布団のような正方形の枕と、掛け布団が置いてある。
そのカバーが、純白の綾織りで、ひっそりとした光沢を放っている。ドイツでは、枕は正方形のものを二つに折って使うらしい。そして、ベッドカバーは使わないようだ。
ん? テーブルの上に一通のオープンレターが……。
それはドイツ語ではなく、英語で書かれていた。
こういうものは、ほら、どうせ挨拶状だから、と、ふつうは読みもしないのだが、そこには、おっ? と目を惹くふたつのものがあった。
ひとつは、宛名が、「お客様各位」ではなく、わたしたちの名前になっていたこと。もうひとつは、最後に、万年筆で書かれた個人名のサインがあったこと。それで、わたしはその手紙を読む気になった。
やるじゃーん、アフテルマン。憎いねえ。
フリート様
ホテル・デア・アフテルマンにようこそお越しくださいました。当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございます。
伝統と現代性が優雅に調和した当館で、快適な滞在をお約束できますよう、わたくしどもはたゆまぬ努力を続けております。
当館の歴史は1508年に遡ります。塔は「ローズ門の砦」と呼ばれ、当時は市壁の一部でした。今は文化財として保護されております。
アフテルマンの名は、古来より町の市会議員を勤めておりました一族の名前に由来します。
この塔の中にはレストラン、ホール、ゴスラーの町の素晴らしい眺めを鳥瞰する客室などがございます。レストラン「アルトドイッチェ・ストゥーベン」には、ぜひ足をお運びくださいませ。
ドイツの伝統様式を残す重厚な雰囲気のなかで、その日のメニュ、またはシェフのお勧め料理をお楽しみいただけます。
当ホテルでは、旅の疲れをゆっくりと癒し、リラックスしていただくために、5種類のサウナを備えております。
屋内プールのご利用は午前6時より、その他の施設は午前9時から午後10時までとなっております。バスローブ、タオル、鍵などは、フロントのほうでお申し付けくださいませ。
朝食は、別の朝食専用のレストランで、時間は午前7時から10時まで、週末は10時30分までとなっております。
あなたの素晴らしい一日の始まりにふさわしい、多彩で豊富な朝食を、ビュッフェでご用意させていただきます。
どうぞ、当ホテルで快適な時を過ごされますよう、スタッフ一同、心より願っております。
あなたのアフテルマンお客様担当チーム
カイ・ローエンロフ
到着した時刻から夕食までにそう時間がなかったので、わたしたちは5種類あるというサウナ(いったい、どんなんだ?)も、プールも楽しむことなく、レストランに向かった。
ところが、うろうろと宴会用のホールにまぎれ込んだりして、もう、わたしたちって、田舎者丸出し。とうとうフロントに行って、レストランへの行き方を聞いた。
このフロントが、また良いのだ。従業員の女性も男性も、ニッコリと笑顔を見せてくれる。星が四つも付いているホテルだと、いや、四つも付いていなくても、スタッフがひどく気取っていたり、無愛想だったりするが、ここは違う。気さくである。
一階のレストラン「アルトドイッチェ・ストゥーベン」に入ると、ウエイトレスがやってきて、「あちらのお席にどうぞ」とうながした。それは、一番良い窓際の三席のうちの一つだった。
ところが、そこには「予約席」のカードが置いてあるじゃないか。あ、いや、予約はしてないからと、別のテーブルに行こうとすると、ウエイトレスは、
「いえ、お客さまにこの席をお取りしておきましたので、どうぞ」
という。
はっはーん。そーゆーことか。
うーん、またもやアフテルマン、やってくれるじゃないか。
憎いぞ、憎いぞ。
わたしたちはフロントで、レストランの場所を聞いた。そのあとすぐに、フロントからレストランに連絡が入ったに違いない。背の高いイギリス人男性とちっこい東洋人女性のカップルが、今そちらに行くから、と。
そしてウエイトレスは、そのときに空いていた席のうちで一番いい席に、予約席のカードを置いたのだ。
「重厚」という言葉がぴったりの、中世ドイツの雰囲気をかもし出すインテリアが、柔らかな間接照明に浮かび上がる。
何本もの太い梁が渡った天井に描かれた、紋章の装飾。その木の肌が放つ飴色の光沢が、経てきた年月の長さを物語っている。
そして、壁に描かれているフレスコ画は、16世紀の市壁に囲まれたゴスラーの町だ。フランスのカルカッソンヌの城壁を思い出させる、青いスレートのとんがり屋根の塔がいくつも並んだ、市壁と町並み。さぞかし雅(みやび)やかな、美しい都であったことだろう。
渡されたメニュは、英語とドイツ語だった。メニュ(定食)はわたしたちには量が多すぎるので、前菜なしで、アラカルトのメインから、ポークステーキを選んだ。
注文はしていないが、つまみが出てきた。これは日本でいう「つき出し」だろう。黒とグリーンのオリーブ。白いクリーミーチーズ、粗挽きのコショウ、粗挽きの海塩、そしてオリーブ油。
チーズは泡立てたクリームのような柔らかいテクスチャー。それをパンにたっぷり塗って、粗挽きコショウをつまんでパラパラと振りかけると、ツンとした香りが立ってピリリとおいしい。
主菜のポークステーキが運ばれてきた。フランスでジロール(あんず茸)という、鮮やかな黄土色で、笠の中央が陥没してロート状になっているキノコがあるが、おそらくその類だろう。
小さなロート状のキノコがたっぷりと、肉の上に乗っている。その、キノコのソースの他に、さらにブルーベリーのクーリ(ピューレ)と、コショウを仕込んだサワークリームが添えてある。
これらのソースの甘酸っぱさが、豚肉とよく合う。そして、細かく砕いたヘーゼルナッツをまぶした、幅の広いきしめんのようなパスタが、銀の器にたっぷりと盛られていた。
メニュにTender pork steak とあったように、本当に柔らかい美味なポークだった。それを3種類のソースで楽しんだら、もうお腹がいっぱい。
それなのに、デザートのメニュを見て、おっ、と目が止まった。「マリネした苺とクリームを添えたライムのパフェ」とある。
マリネした苺ねえ……。
果物ってものは、その土地で旬の時期に熟したものを採って、そのまま食べる。これに勝る美味しい食べ方はない。と、わたしは思っている。
だから、わたしにとって果物のマリネなんぞは邪道もいいとこだが、時々、スーパーで買った苺には美味しくないものがある。
そういうときは、わたしは砂糖とディジョン産のクレーム・ド・カシス(カシス酒)でマリネする。そしてそれに、生クリームで割ったヨーグルトをかけると、なかなかイケルのである。
うんむ、このアフテルマンのシェフは、何を使って苺をマリネするのだろう。むらむらと興味がわき、シェフのテクニックを盗みたくて、お腹がいっぱいなのに注文してしまった。
わたしがレストランに行くときに必ず手帳を携帯するのは、このためだ。これはどうやってつくるのかと質問すると、ウエイトレスは厨房に行って、シェフに聞いてくれる。
それを手帳に書きとめておく。フランスのレストランでは、よくそうやってレシピを集めたものだ。
わくわくして待っていると、ウエイトレスがやってきて、あっさりと期待は裏切られた。苺のマリネがもうないので、フルーツパフェでも良いかと聞く。
えーっ、そんなあ……。
「だったらいりません」と言えない小心者は、黙ってうなづくしかない。
ガラスの大皿に、ライムのシャーベット、白ネクタリンと洋梨のスライス、ブラックチェリーのクーリ、そしてフィサリス(ほおずきの一種)。
それらが、ホイップしたクリームと共に華麗に盛られていた。味は想像したとおりのものだが、白ネクタリンは美味だった。
次の朝。
何種類ものジュース、何種類ものホットドリンク、何種類ものパン、何種類ものハム、チーズ、卵料理、フレッシュフルーツ、コンポート、ヨーグルト、ジャム、蜂蜜、エトセトラ、エトセトラ。
ドイツ風、フランス風、イギリス風もそろって、こんなに多彩な朝食って、見たことない。
ビュッフェにずらりと並んだものを、わずかづつでも試してみたいが、種類が多すぎて、全部を試食するのはとうてい無理である。
あれも食べていない、これも味見していないと、うらめしい思いを残しながらホテルを出て、ゴスラーの街を観光した。そして、古都をあとにし、一路ベルリンへ――
いつかまたドイツに来たら、ふらりとここに寄ってみよう。
そして今度こそは試してみるぞ、五種類あるというサウナを。(いったいどんなんだ?)
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