うちのオットットは歯を磨くとき、いつも「牙を磨く」という。
牙といえば、やはり百獣の王ライオンとか、虎とか、そういった強そうなイメージが浮かぶ。
ところがオットットは、背だけは高いが、じつはとっても心配性で、とっても気の小さい男なのだ。んもー、あんた、タマタマついてんのかよッ、となじりたくなることも、しばしばある。
そんな小心者だから、自分の歯を「牙」と表現するのは、強くて豪快になりたいという、潜在的願望の現れにちがいない。などと、「あなたにもわかるやさしい心理学講座」的分析をしてみるが、きっとそうだろ。
ちなみに牙は英語で「ファング」という。
「ふん、なーにが牙だ。歯が欠けたくせに」
ブリッジが取れて、歯医者の予約待ちをしている彼にそう言うと、
「なにおーっ! ドラキュラだぞー!」
とわたしの首根っこをつかまえて、そこに噛みつく真似をした。
(あ、ライオンじゃなくて、そっちか)
「ねえ、ねえ、ドラキュラが血を吸ったあと、何ていうか知ってる?」
と、彼は灰褐色の眼をクリクリさせて、うれしそうに聞く。
(しつこいが、牙は英語で「ファング」という)
「いんや。なんていうの?」
「ファングーヴェリマッチ。きゃははは」
(解説 サンキューヴェリマッチ Thank you very much のこと)
あのなー、おっさん。
ったく、しょーもない駄洒落ばっかり言ってえ。えーかげんにしなさい。
このような、どうしょうもないオヤジギャグを、最低でも一日二回はカマされるというウンザリする暮らしを、わたしは毎日送っている。しかし、一日二回なら、まあ、我慢するとしよう。
ところが、何をトチ狂ったか、オットットは一日中、オヤジギャグモードのスイッチが入りっぱなしで、駄洒落を機関銃のごとくだだ打ちされて、まいってしまったことがある。
あれはそう、去年の暮れ、クリスマスの買物に、日帰りでフランスのアラスに行ったときのことだ。
わが家から車で四十分ほど走って、ドーバーに着くと、道路に「南港ドックはこちら」という標識があった。
それを見てすかさずオットットが、下手くそな日本語でいった。
「ドックはドックですかぁ?」(どこですか?)
「あはは、あんた、日本語で駄洒落できるやん」
「ジャパニーズ・パンだから、これがホントのジャパン!」
(解説 英語で洒落のことをパン pun という)
と、まあ、この辺まではまだよかった。ところが、車でユーロトンネルに乗り込んでから、そのアホさ加減に拍車がかかった。
あ、いや、「トンネルに乗り込む」という言い方はおかしいな。いやいや、しかし、実際にそうなんだもん、やっぱり「乗り込む」としか言いようがない。つまり、あのドーバー海峡の海底にあるトンネルは、車で走ることはできないのだ。
ユーロトンネルの入口にある駅は、ちょうどハンバーガーショップのドライブスルーのように、ドライブしながら改札を通る。そして入国審査(フランスの入国審査を、イギリスで受ける)を通り、税関を通り、それからホームに出て、専用列車に車で乗り込むのである。
列車内では縦列に駐車したまま、乗客は車の中で、フランスに着くまでの二十五分間、じっとしてたり、新聞を読んだり、ラジオを聞いたり、トイレに行ったり。
はたまた、鼻くそをほじったり、それを丸めて車のガラスに貼り付けたり。(あ、これは、前に駐車している車の後ろのシートで、子供たちがやってたの。わたしじゃない、ってば)。
まあ、そういうことをしているうちに過ぎてしまうのが、二十五分という時間である。この間に、列車内で案内放送が何度かある。そのたびに、ピンポーンとチャイムが鳴って、それから放送が始まる。
「本日はユーロトンネルをご利用いただきまして、まことにありがとうございます。当列車はなんたらかんたら、カレーへの到着時刻はなんたらかんたら……」
英語は男性、フランス語は女性の声で案内放送が流れるのだが、この男性の低音のクリアな英語が、びっくりするほど美しいのである。
こういうのを聞くと、いやあ、やっぱり英語はなんたって、そりゃもうブリティッシュ・イングリッシュですなあ、と惚れ惚れする。そうやってうっとり聞き惚れていると、オットットが横から、よけいな口をはさんだ。
「ねえ、どこに卓球台があるの?」
「はあ?」
「だってさっきからピンポン、ピンポンっていってるよ。卓球の案内だろ?」
「はい、車内の退屈をまぎらわすために、当列車では卓球セットをご用意いたしております。って、アホッ、ちゃうわっ! あれは放送のチャイムやんっ!」
「あ、なーんだ、そうだったのかあ。きゃははは」
はあ〜。
目的地到達前からすでに、ドッとお疲れ気味のわたしである。
カレーから南東に百キロ余り下って、予定通り、きっちり二時間でアラスに着いた。この街の中央には、ブリュッセルの華麗な広場グラン・プラスを少し小さく、地味にしたような、しかしそっくりの広場がある。
その広場の近くにもうひとつ、おなじような広場があって、そこでクリスマス市が開かれていた。駐車場に車をとめて、クリスマスのイルミネーションで飾られた街に出た。
ひょいとすれちがったのは、ベレー帽をかぶった初老の男性。こういう人に出会うのは、やっぱりフランスだねえ。イギリスでは男性のベレー帽なんてほとんどお目にかかれない。
「あの帽子、ベレー・ベレー・ナイスだね」
(解説 ヴェリー・ヴェリー・ナイス very very nice のこと)
んもー、また駄洒落かよォ。
「そうそう、アラスでは気をつけないとダメだよ」
「どうして?」
「男の人に、お尻をさわられたりするからね」
「えー、どういうこと?」
「セクシャル・アラスメントっていうだろ?」
ったく……。
このあたりになると、わたしはもう、いちいちツッコミを入れるのも面倒になって、無視する。
昼食にレストランに入った。
ウエイターの案内でテーブルに着き、メニューを広げる。このときばかりは、しょうもない駄洒落オヤジが役に立つ。彼はフランス語に堪能なので、メニューの解説をしてくれ、注文もスマートにこなす。
ワイン、前菜、主菜のオーダーを済ませると、店内に小さくかかっていたBGMが、インストラメンタルのプレスリーの曲になった。
「あれはグリーン・スウェード・ハットだね」
「なにいうてんの。ブルー・スウェード・シューズじゃないの」
「いや、グリーン・スウェード・ハットだよ」
「ちがうって。ブルー・スウェード・シューズよ」
「オーケー、ユー・パ・スウェード・ミー ( You persuade me)」
(解説 パスウェイド persuade は「納得させる」という意味)
と、まあ、こういう調子でこのあとイギリスに帰り着くまで、アホ亭主は延々と駄洒落を垂れ流した。
が、これ以上披露して読者諸氏を退屈させるのもしのびないので、このへんでジ・エンドとさせていただきます。
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