キザ

イギリス生活よもやま話【エッセイ】

プロフィール

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Teeka(フリート妙子)。イギリス人と結婚して、イギリス南東部に住んで、15年が過ぎました(はっや〜い!)。
夫とのなれそめは、よくある話なんですが、彼がわたしの英語の先生だったことです。
静かな海辺の田舎町で、教師を退職した父ちゃん(夫)と、ふたりで暮らしています。

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イギリス生活よもやま話【ブログ】

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キザ

男がうやうやしく女の手を取り、その甲に接吻する。
そして、その手を取ったまま、男はゆっくりと顔をあげ、敬羨(けいせん)のまなざしで女を包みこむ。

なーんてネ。こんなのは古い映画の中だけと思うでしょ。ところが、こういうキスを(なぜか敬羨のまなざしはなかったぞ)、わたしはこの十五年間にイギリスで、夫を含めて五、六人の男性から受けたことがある。だから、まったく廃(すた)れてしまったわけではないのだ。

最初の相手はデイックという名のユダヤ人だった。黒い髪にきりりと太い眉、ジョージ・クルーニー風のなかなか男前の中年である。当時、わたしはホームステイして英語学校に通っていた。

ある日、ホストファミリーが、友人のデイック夫妻のカクテルパーティに、わたしを連れていってくれた。迎えてくれた夫妻に「ハロウ」といって挨拶すると、妻のほうは「ハロウ」といい、夫のほうは「グッド・イーブニング」といった。

あらら、やだ、どーしたんだこの人。えらくあらたまってェと思いつつ、わたしはあわてて「グッド・イーブニング」といいなおした。すると彼はわたしの手を取り、「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」と、ゆっくりと気取った調子でいって、手の甲にキスをした。

えっ、な、なんだ、なんだ、こりゃ。
こういう挨拶ってのは、古い映画の中で、王子さまが、落下傘のようなスカートのお姫さまにするんじゃなかったっけ? 

わたしは、てっきり、彼のジョークだと思ったが、本人は大真面目だし、まわりの誰も笑っていない。そのうやうやしい芝居がかったキスのあと、彼はわたしの手を自分の両手に包み込んだまま、わたしの服がいかによく似合っているかを、賛美し始めた。

そのときのインパクトがあまりにも強烈だったので、今でもよく覚えているが、わたしは白いニットのセーターとスカート、赤い花模様のスカーフを肩にかけ、赤いパンプスを履いていた。

赤と白のコントラストが素敵だの、赤い花のスカーフが、あなたの長い黒髪によく似合うだの、つぎつぎとよくもまあ、お世辞が出てくるもんだ。

欧米の男たちのスゴイところは、ぬけぬけと、しかもマジでお世辞がいえることである。彼らは、女を言葉で愛撫するすべを知っている。日本の男どものように、中年女性を「おばさん」だの、「ババア」だのと呼ぶような、失礼なことはしない。

日本の男がお世辞がへたなのは、歯の浮くようなセリフに自分が照れてしまうからだ。西洋の男にはそんな繊細な(?)神経はないから、堂々と嘘八百をならべたてる。

でも、その嘘は、相手をいい気分にさせるためだから、これはサービス精神、ひいては相手への思いやり、対人関係の潤滑油だろう。

たまに新しい服を着たり、いつもはジーンズでも学校のパーティにお洒落をして行くと、生徒であろうと先生であろうと、ヨーロッパ人の男性なら、たいてい誉めてくれる。

最初は照れくさくてどうしょうもなかったくせに、慣れると次第に平気になってくる。あっそ、ありがとうと、いたって冷静に賛辞を受けとめ、しまいには面倒になって、はいはい、わーった、わーった、もういいからいいからと、自分のほうからサッサと話題を変えていった。

ついうっかり「お世辞がおじょうずだこと」などと言おうものなら、いんや、自分はお世辞なんかいっていないと言い張り、きみはこのパーティの中で一番美しいと見えすいた大嘘をつき、

ついには、わたしがその場の雰囲気を華やかにするのにどれだけ貢献しているか、という話に発展するのである(あー、アホらし)。

なぜあのユダヤ人のディックが、わたしの手の甲にキスをするという仰々しい挨拶をしたのかは、いまだに謎である。

ただ考えられることは、彼がかなりエキセントリックな人物であり、そういった西洋の古き美しき習慣を、デモンストレーションとして、東洋からの遠来の客に見せてくれたのではないだろうか。

そのあとデイックは、わたしの手を取って(!)、家中を案内した。そして応接間にもどって、マティーニを飲みながら、飾り棚の上の置物を自慢した。

ところがその棚は背が高くて、チビのわたしにはよく見えない。こんなとき、棚から置物をおろして見せるのが普通である。

ところが、彼はなんと、わたしを幼児のように抱き上げて、それを見せたのである。もちろん、彼の妻の目の前で。

いやはや、なんとも――。
西洋の男には、日本人には絶対に見られないタイプがいるものである。(正直なところ、わたしは、こういうタイプはちょっと苦手である)


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それからしばらくたった、ある土曜日のこと。
買物がてら、町をぶらついていると、バッタリと担任の先生に会った。これが今のわたしの亭主だが、彼に対して当時のわたしは「いつも明るい気さくなおじさん」ぐらいの意識しかなかった。

お茶でもどう? というのでホイホイとついて行った。もちろん相手にもよるが、こういう場合は、お茶をごちそうになったうえに、英会話の個人レッスンを無料(ただ)で受けさせていただくようなものだから、
ホイホイとついて行く。

海が見えるホテルのティールームで、紅茶とスコーンを注文すると、ほーら始まったぞ。お世辞というのは、どうやら西洋の男にとっては、欠かせないエチケットのようである。

「そのセーター、とってもよく似合うよ」
「ありがとう」 (そーら、きたぞ)
わたしはお世辞の応酬は苦手なので、できるだけ早くこの場面をきりあげようと、いつもできるだけそっけない返事をする。

「きれいな色だね。タンポポの色?」
「ううん、カナリアの色」
「いや、違うよ。ダフォディルズ(黄水仙)の色だ! ほら、きみのおかげで、このテーブルだけ春が来たみたいじゃないか。ダフォディルズは、ぼくの大好きな花なんだ。春といっしょにやって来るからね」

そして、彼は、桂冠詩人ワーズワースの詩を口ずさんだ。


I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.

谷また丘のうえ高く漂う雲のごと、
われひとりさ迷い行けば、
折りしも見出でたる一群の
黄金色(こがねいろ)に輝くの水仙の花
湖のほとり、木立(こだち)の下に、
微風に翻(ひるがえ)りつつ、はた、躍りつつ  

                 (田部重治訳)


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どうです。日本の男性諸氏よ。
喫茶店で、女性とこういう会話ができますか?

女性の服装に触発されて詩の暗誦なぞ、思いもよらぬだろう。日本の男友達にこの話をすると、「ケッ、キザな野郎だ。よくやるよォ」なんて反応が返ってくるのが常である。ま、逆立ちしたってそんな真似は、できんでしょうな。

でもネ、それでいいじゃありませんか。ワーズワースの詩が、あのロマンスグレイのイギリス人の口から、しかも美しいブリティッシュ・イングリッシュで出てくるから、うっとりするのであって、これが日本の男なら吹きだしてしまう。似合わぬことはやめたほうがいい。

それに、わたしは日本の男たちに欧米人の真似をしてほしいなどとは、これっぽっちも思っちゃいないのだ。(中年女性を「ババア」と呼ぶことはやめて欲しいけど)

ぬけぬけとお世辞をならべるより、一刻も早くそのシーンから逃れたいかのように、照れながらひとこと、「それ、いいよ」なんてボソッという男が好きだ。

「おっ、馬子にも衣装たァこのことだ」などと妻をけなしながら、まんざらでもなさそうにニヤついている夫もいいなあ。

わたしは今のイギリス人の夫とは再婚だが、亡くなった最初の夫は、京都のど真ん中で生まれ育った京都人である。彼は典型的日本式照れ屋のタイプに属するが、その〈照れ〉の表現が少々過激だった。

シンプルなワンピースにちょっと凝った幅広のベルトなどをしていると、
「おっ、おっ、どないしたん、チャンピオンベルトなんかして。強(つお)そうやんけ」
と憎まれ口をきく。

エプロンをつけて台所に立っていると、後ろからそーっとやって来てひもをほどく。結ぶと、またほどく。たまにミニスカートをはくと(これはまだ足が細かった頃の話)、床にへばりついてスカートの中をのぞきこむ。

めずらしく和服を着れば、身八口(みやつくち)から手を突っこんで、せっかく整えた襟元を乱してくれる(胸をさわるなら許すが、そうではなくて襟元から手を出して、わたしの鼻をつまむのが奴の目的だから、けしからん)。

どうにも困った亭主だが、わたしはどんなにそれを楽しんでいたことか。お世辞をいうことはなかったが、少なくとも彼はわたしを無視したことはなく、わたしの服装にはいちいち反応して、笑わせてくれた。

そして、それが彼一流の賛辞であることに気づくだけの洞察の鏡を、新鮮の輝きを失った日常の日々でも、曇らせることはしていなかったつもりである。


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わたしは、照れる男の顔を見るのが好きだ。
もう亡くなってしまったけれど、ほら、寅さんや川谷拓三さんが照れるときの顔を、ごらんなさいよ。

いいなあ、いいなあ。素敵じゃありませんか。
照れることは、日本の男の美徳のひとつとさえ、わたしは思っている。その顔は美醜に関係なく、可愛げがあり、罪がない。

それはほんのつかのま、夏の日の、熱いひなたの匂いを呼び起こす。
麦藁帽子をかぶって虫取り網を持った少年の、あの遠い、遠い夏の日――。

そういえば、西洋の男が頭をかいて照れるのを、見たことがない。顔をくしゃくしゃにして、川谷拓三式照れ笑いをするのを見たことがない。

彼らは、恥ずかしかったりきまりの悪い思いをしたとき、パッと顔を赤らめることはある。なまじ色が白いだけに、赤面するとよくわかる。だがそれは、日本の男たちのあの「くしゃくしゃ可愛げ顔」とは別のものだ。

ルックスにおいては、骨格が違うのだから、扁平な顔のわれわれ日本人がかなわないのは仕方ないにしても、あの顔だけは西洋人にない魅力だと思うのだ。

ところが、そう思うのはわたしが日本人だからであって、西洋人にとっては、日本人特有の不可解な笑いと映るのかもしれない。


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