エベレスト (3)

イギリス生活よもやま話【エッセイ】

プロフィール

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Teeka(フリート妙子)。イギリス人と結婚して、イギリス南東部に住んで、15年が過ぎました(はっや〜い!)。
夫とのなれそめは、よくある話なんですが、彼がわたしの英語の先生だったことです。
静かな海辺の田舎町で、教師を退職した父ちゃん(夫)と、ふたりで暮らしています。

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エベレスト (3)

【初登頂物語 Part 3】   
  
1953年4月12日、英国隊のベースキャンプが設営された。
ここから、クーンブ氷河と、ウエスタンクームの凍結雪面を通って、3トンの隊荷を運び上げる。クライマーが登って道をつけると、その後を、シェルパのポーター達が、ひとり20キロの荷を担いで、登るのだ。
  
この氷河(アイスフォール)は、アルプスのそれとは、規模を異にする。そそり立つ巨大な氷の塔、何軒もの家を連ねたほどの氷塊が、ごろごろと転がっている。

あちこちから聞こえてくる、氷のきしむ音、崩壊する音。いつ足元の氷が崩れるか、いつ頭上に氷塊が落ちてくるか。常に、不安を掻き立てる。
  
アイスフォールを抜けると、ウエスタンクームのクレバスが、鋭い口を開けて待っていた。深い、底知れぬクレバス。はるかな下に、蒼い淵が見える。

アルミニュウムの梯子が、架けられた。その上を、荷を背負ったシェルパたちが、渡っていく。が、梯子はじきに弱って、使えなくなった。
  
そこから一番近い森まで下山して、一本の木を切り、それを橋として使った。丸太の上を歩くのは容易ではない。足を滑らせたが最後、淵の底に呑み込まれて、終りである。
  
標高6405m地点に、アドバンス・ベースが設営された。
サミット・アタックのためには、ここからサウスコル(7930m)まで、エベレストの南側に隣接する高峰、ローツェの1220mの氷の傾斜を登って、さらに半トンの荷を揚げなくてはならない。
  
現在のクライマーにとって、このローツェの斜面は、すでにあるロープを伝って早く安全に登ることができるので、さほど問題ではない。しかし50年前のパイオニアたちには、そんなものはない。
  
当時、靴につけるアイゼンは、きっちりとフィットしなかったばかりでなく、前爪がなかったので、氷の斜面では、足元が安定しなかった。

そんな装備で、高登山の訓練を受けていないシェルパたちのために、サウスコルまでの急斜面を、氷を切り砕いて階段を作るという、気の遠くなるような作業が始まった。
  
アイスアックス(氷斧)の尖った部分で氷を砕き、平らな部分で氷を掻き出して、足場を作る。重労働の上に、悪天候がそれを妨げた。

3日たっても作業は完成しない。業を煮やしたハントは、自ら様子を見に登って来た。しかし、彼は衰弱しきって、倒れ込むようにして、現場に到達した。  
  
標高5000mを越えると、大気中の酸素の量は、平地の半分になる。腎臓が過活性化するために、脱水症状を起こし、肺、心臓ともに異常をきたす。

この環境下での労働が、どんなに過酷なものか。ハントは交替要員を送ったが、1日と続かず、交替を繰返すばかりだった。


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5月の末に、モンスーンがやって来るという。南からの湿った暖かい気流は、激しい風と降雪をもたらし、登攀を不可能にする。

天気予報に耳を澄ますハントの顔が、険しくなる。過去の7回に及ぶエベレスト遠征のうち、少なくとも2回は、このモンスーンのために敗北しているのだ。なんとしても、これが来る前に登頂しなければ――。
  
5月15日。道はまだ斜面の半分しかついていない。メンバーを交替しながら作業を続けるが、それから3日たってもまだ、サウスコルに到達しない。ハントの焦燥は、頂点に達した。モンスーンが来る。もはや、これ以上待てない。
  
ハントは、大きな賭けに出た。
作業は未完のままで、荷揚げが始まった。

だが、シェルパたちは、中腹で動けなくなった。次の日、ハントは、ヒラリーとテンジンを、強制執行のために送った。第二次アタック隊である二人を、この時点で使いたくはなかったが、ハントに選択の余地はない。
  
シェルパたちを叱咤激励し、5月22日、ついにサウスコルに到達。風の吹きすさぶ荒涼としたコル(峰と峰との鞍部)に、52年のスイス隊のキャンプの跡があった。

さあ、ここからレースが始まるのだ。
あのスイス隊に勝つための――。


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5月26日、朝7時30分。第一次アタック隊の、ボーディロンとエヴァンズが出発した。11時、思わぬ危機に見舞われる。酸素ボンベを交換したとき、エヴァンズの機器が、凍結してしまったのだ。

さらに、酸素の量をチェックすると、あと3時間分しか残っていない。ここから頂上まで、およそ3時間。すると、下山の酸素がない。これ以上進めば、隊は登頂ではなく、救助活動に向かうことになる。選ぶ道は、撤退しかなかった。
  
5月27日。モンスーンがやってきた。吹き荒れる風雪に、不安と焦燥が募るが、次の日、風がやんだ。ヒラリーとテンジンが支援隊とともに出発。8540m地点に最終キャンプを設営して、支援隊は降りて行った。

5月29日。素晴らしい青空。風は弱い。6時30分出発。途中、第一次アタック隊が交換した、酸素ボンベを拾った。3分の1の酸素が、残っている。これは二人にとって、大きなボーナスだ。
  
9時、サウスサミット(8770m)に到達。ナイフの切っ先のような尾根が続く。ここでは、どんな間違いも許されない。一歩間違えば、3000mを滑落して、終りである。二人は、死の縁を進んで行く。
  
頂上まであとわずかの地点で、最後の障害が立ちはだかった。そそり立つ巨大な絶壁。ヒラリーはチムニー(岩の割れ目)を見つけ、10キロのボンベを背負った体で垂壁を登り、テンジンを引き上げた(この絶壁は「ヒラリーのステップ」と呼ばれている)。
  
11時30分。
ついに二人は、世界の屋根に立った。

そこは2,3人が立つのがやっとのスペースしかない。二人は抱き合って祝福する。ヒラリーは、隊長ハントから託された小さな十字架を、そしてテンジンは、娘がくれた鉛筆と菓子を、雪に埋めた。チョモランマ(世界の女神)へ捧げる供物だった。
  
この地で生まれ育ったテンジンにとって、初登頂の感慨は、ひとしおのものだった。彼は、首に巻いた赤いスカーフに心を馳せ、達成感をかみしめた。

それはちょうど一年前、スイス隊の登山家ランベールと頂上付近で登頂を断念したときに、彼がくれたスカーフだった。今、ランベールとともに、3人で登頂したのだという想いが、テンジンにはあった。

ヒラリーは、このときの心境を、こう語っている。
「特別な喜びや興奮は、なかった。ただ、静かな満足感だけがあった」
  
エベレスト初登頂のニュースが英国に届いたのは、奇しくも、エリザベス女王の戴冠式の前夜だった。翌6月2日、この輝かしい吉報に飾られて、エリザベス王朝が、誕生した。
  
7月3日、遠征隊は帰国の途についた。乗換えのために、ジュネーブの空港に降りた彼らを待っていたのは、シャンペンを手に駆けつけた、スイス隊だった。

この栄光の半分はスイスのものだと、謝意を述べるハントに対して、スイス側は、それは英国の、30年の努力の賜物だと応える。
祝杯の歓声がはじけ、空港のトランジット・ラウンジに谺(こだま)した。


(完)

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