エベレスト (2)

イギリス生活よもやま話【エッセイ】

プロフィール

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Teeka(フリート妙子)。イギリス人と結婚して、イギリス南東部に住んで、15年が過ぎました(はっや〜い!)。
夫とのなれそめは、よくある話なんですが、彼がわたしの英語の先生だったことです。
静かな海辺の田舎町で、教師を退職した父ちゃん(夫)と、ふたりで暮らしています。

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エベレスト (2)

【初登頂物語 Part 2】   
  
1952年4月。
エベレストに、スイスから初の遠征隊が入った。
時を同じくして、英国隊はヒマラヤに来ていた。チョ・オユー(8201m)で、翌年の遠征のための、装備のテストと訓練をしていたのだ。
  
英国隊クライマーよりも熟練したアルピニストの精鋭を集めたスイス隊、しかも、アタック隊は、高名な登山家レイモン・ランベール――1938年のブリザードで、凍傷によって足の指をすべて失ったにもかかわらず、登山を続けた伝説の猛者。

そして、シェルパ(ガイド兼ポーター)のテンジン・ノルゲイ。これまでに、4回のエベレスト登攀(そのうち3回は英国隊に参加)の経験を持つ、ベテランである。
  
やったのか? 英国は、スイスに敗れたのか?
神経をキリキリと尖らせ、蒼白な面持ちで、下山したスイス隊を迎える英国隊。テンジンが伝えた敗退のニュースに、彼らの凝縮した不安が、一挙に溶けていった。
  
登頂は失敗したが、このスイス隊は、素晴らしい業績を残した。初のエベレストにもかかわらず、これまでの英国隊の記録を凌ぐ8595mまで登り、サウスコル経由の南東稜ルートを、開拓したのだ。
  
そして、テンジン・ノルゲイの登用。サーダー(シェルパ頭)であるテンジンの、登山家としての素質と才能に感銘を受けたスイス隊は、彼を登山隊の正式メンバーに迎え入れたのだ。

これは、テンジンにとって、大きな歓びであり、名誉であった。(翌年の英国隊もこれにならい、テンジンが、ヒラリーと共に頂上へ立つことになる)
  
この屈強な、そして優れた登山家であるランベールとテンジンの二人が、頂上まで垂直距離でわずか255mの地点に達しながら、なぜ、敗退しなければならなかったのか。何が、あったのか。
  
英国隊長のシプトンは、スイス隊に、失敗の理由を聞こうとしない。それが、朋友の深い落胆の心に土足で踏込むことであるかのように、彼はためらっていた。そんなシプトンに、隊員らは、苛立ちを募らせる。
  
しかし、翌年の英国隊の成功の鍵をにぎるのは、スイス隊の失敗から学ぶ教訓である。問題を解明し、対処しなければならない。

シプトンがためらうのなら、私がやろう――。
生理学者グリフィス・ピュウが、帰国したスイス隊に会うために、チューリッヒに飛んだ。
  
致命的な敗因は、酸素吸入装置の欠陥だった。酸素の出力が充分でないために、ボンベを背負った体を支えるのがやっとで、とても登攀の体力は出ない。

「この問題さえなかったら、初登頂はスイスのものだった」
当時の隊員だったジャン・ジャック・アスペルは、そう語っている。
  
(1978年に、ラインホルト・メスナーとペーター・ハーベラーが、初のエベレスト無酸素登頂に成功した。それ以来、現在までに何人もの登山家が、無酸素で登頂している。しかし50年代はまだ、平地の3分の1の酸素しかないエベレストの頂上で、酸素ボンベなしでの生息は、医学的に不可能だと、考えられていた)
  
そして、次の重要な敗因は、脱水症状による衰弱。雪を溶かして水を得るのに、スイス隊は固形燃料のストーブを使っていた。ところが燃焼速度が遅いために、充分な水を供給することができなかったのだ。

ピュウは、スイス隊から学んだ多項目にわたる改善点を、6ページのレポートにまとめた。
  
1952年9月、またもや英国隊は、緊迫した焦燥に包まれる。
まだピュウがチューリッヒに滞在中、スイスは早くも次の遠征隊を送ったのだ。隊は、新メンバーで編成されたが、ランベールとテンジンは再び選ばれた。

固唾を呑んで結果を待ち受ける英国隊に、ようやく届いた敗退のニュース。スイス隊のサミット・アタックは、マイナス50度の悪天候に阻まれて、断念せざるを得なかった。

  
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英国のヒマラヤ委員会は、ここで、思いきった改革を打ち出した。
翌年の遠征隊の隊長に、シプトンを再び指名した。しかしそれは、もうひとりの隊長と共同で統率するという、不可解なものだった。隊長が二人では、トラブルを招くだけだということは、誰の目にも明らかである。
  
シプトンを排除するために、仕掛けられた罠――。
誰よりも多くエベレストに登り、誰よりもエベレストを識(し)り、その征服に生涯を賭けたシプトンにとって、これほどの屈辱はない。

しかし、彼はその辛酸に耐え、潔く辞任し、隊を去った。
そして、7名の隊員が、シプトンの後を追った。
  
新しい隊長に、陸軍大佐のジョン・ハントが選ばれた。誠実で、しかもカリスマ的な魅力と統率力を持つハント。彼の説得に、辞任した7名全員が、戻ってきた。
  
秋の遠征を終えて帰国したスイス隊は、ハントを、チューリッヒに招いた。そして再び、英国隊はスイス隊の失敗から、多くを学び取るのだった。
  
  
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フランスが、54年のエベレスト遠征を、計画している。そして、55年には、スイスが3度目の挑戦を、企てている。アメリカはすでに、50年に偵察隊を送っている。

エベレストの外国人登山が解禁となった今、初登頂は、もはや時間の問題である。53年を落とせば、後はない。英国にとって、最後のチャンスだった。
  
決死の覚悟で臨む隊員たちの、準備が着々と進んでいく。かつてないほどの周到さで、装備を厳選し、入手できる最高の用具を揃えた。とはいえ、50年も前のこと、現在のハイテクノロジーを駆使した装備には、及びもつかない。

ヒマラヤで雇い入れる20名のシェルパ達には、怪我や死亡事故のために、保険がかけられた。しかし、クライマーたちの保険は、任意である。
  
年が明けた。
1953年3月、隊長ハントは、遠征隊を率いて、ネパールに入った。

英国人クライマー8名(そのうちのひとりは医師)、カメラマン、生理学者、そして二人のニュージーランド人クライマー、エドマンド・ヒラリーとジョージ・ロー。登頂メンバーとして加わったテンジンは、カトマンズで、英隊と合流する。
  
今回の遠征は、登るか死ぬかの、どちらかだ――。
そう覚悟したテンジンに、ひとつだけ心残りがあった。自分の死後、路頭に迷うであろう妻子である。ダージリンを出発する前、彼は親友を訪ねた。
  
「心配するな、テンジン。俺にわずかでも食べ物が手に入るかぎり、おまえの妻や子が飢えることはない」
友はそう約束して、テンジンを、ヒマラヤへと送り出した。
  
1953年4月12日、英国隊ベースキャンプ設営。
エベレストに命を賭けた男たちの苦闘が、今、始まろうとしていた。

  
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