エベレスト (1)

イギリス生活よもやま話【エッセイ】

プロフィール

profile-01.jpg

Teeka(フリート妙子)。イギリス人と結婚して、イギリス南東部に住んで、15年が過ぎました(はっや〜い!)。
夫とのなれそめは、よくある話なんですが、彼がわたしの英語の先生だったことです。
静かな海辺の田舎町で、教師を退職した父ちゃん(夫)と、ふたりで暮らしています。

運営サイト

ブログもアップしています。
イギリス生活よもやま話【ブログ】

1日1回のいいこと。クイズに答えてクリック募金しませんか? あなたには、一切お金はかかりません。

Sponsored Link

エベレスト (1)

【初登頂物語 Part 1】   

2003年の5月29日は、エベレスト初登頂50周年の記念日だった。イギリスでは、テレビをはじめとするマスメディアで、いくつもの特集が組まれた。

その報道から、初登頂成功の裏に、国の威信を賭けての熾烈な競争があったことを、そして、そこには、さまざまなドラマがあったことを、わたしははじめて知った。
  
七つの海を制した大英帝国。19世紀のヴィクトリア王朝期には、帝国は最盛期を迎え、インドを植民地として支配していた。そして隣国のチベットに勢力を伸ばしながらも、その支配者であるダライ・ラマを擁護するという、慎重な友好関係を築いていた。
  
ネパールとチベットの国境に位置し、8850mの高さに堆積する岩と、氷と、雪。冬は、マイナス60度まで気温が下がり、夏には、1日に3mもの雪が積もる――。

この山が、インドからの測量調査隊によって、世界の最高峰と確認されたのは、1852年のこと。1865年に、測量局の前長官ジョージ・エベレスト大佐にちなんで、エベレストと名づけられた。以来、故国に高峰を持たない英国民にとって、それは、かけがえのない山となった。
  
20世紀初頭から、すでに登頂が検討されていたが、エベレスト委員会が発足して、英国が本格的に遠征隊を送るようになったのは、第1次大戦の後。1920年から30年代の間に、遠征隊の派遣は、7回に及んだ。
  
このうち、1924年のジョージ・マロリーが参加した隊は、8570mの地点に到達したが、失敗。「なぜ山に登るのか」という問いに対して、「そこに山があるから」というコメントを返したマロリーの遺体が、1999年に発見されている。
  
24年の失敗のあと、スイスとドイツの登頂計画を知ったエベレスト委員会は、それを阻止する。チベットのダライ・ラマへの登山許可を、インドの植民地政府を通して申請するよう取決めるなど、英国側は、あらゆる手段を講じて、他国のエベレスト登山を妨害した。

強大な政治的影響力を持つ英国に対して、この地域に政治的ノウハウを持たない他の西欧諸国に、なすすべはなかった。


line-450x16.gif

なぜそこまで、エベレスト委員会は強硬な手段をとったのだろうか。
いくつか、考えられる理由がある。

ひとつには、スイスのように自国にアルプスの山を持つ熟練した登山家たちの手腕を、畏れたから。彼らを入山させたが最後、いつ征服されるかわからないという畏れが、常にあったのではないか。

英国人にとって、英国が発見した世界最高峰を最初に征服することは、国をあげての悲願となっていた。
  
そして、もうひとつは、当時の世界強国であった大英帝国の威信、プライド。その背後に、北極点、南極点到達への遅れをとったことへの、焦りがあったのではないか。

特に、1910年の、英国スコット隊とノルウェーのアムンセン隊の北極点到達レースでは、帝国が弱小国ノルウェーに敗れるという、苦渋を味わっていた。
  
政治力を駆使して、第二次大戦までの20年以上にわたって、英国は競争相手を排斥してきた。ところが、皮肉なことに、エベレストを独占している間に行った七回の遠征は、すべて失敗に終ったのだ。

 
line-450x16.gif
  
第二次大戦が、終結した。もはや、大英帝国の威光はない。
1947年、エベレスト委員会は、名を「ヒマラヤ委員会」と改め、登山計画を再開した。

ところが1950年になって、ヒマラヤの政治地図が激変する。中国がチベットを侵略し、鎖国体制に入ったのだ。これで、これまでに英国が開拓してきた、北稜からのエベレスト登頂ルートは、完全に閉ざされた。
  
その一方で、それまで鎖国していたネパールが、国境を開いた。同時に、エベレストは解禁となり、英国の独占時代が終った。

まったく新しい、南ルートである。1951年、ネパールから登頂許可を得た委員会は、翌年の遠征のために、下検分の踏査隊を派遣した。
  
9月、エベレストに到着したのは、過去4回の遠征に参加したエリック・シプトンを隊長とし、エドマンド・ヒラリーを含む6人のチーム。南ルート最大の難所のクーンブ氷河、そしてウエスタンクームのクレバスを偵察し、南ルートからの登頂が可能だという確信を得て、山を降りた。
    
カトマンズに到着すると、ニュースが飛び込んできた。スイス隊が、52年の登山許可を得たというのだ。英国側は、彼らが許可を申請していることさえ、知らなかった。
  
もはや、スイス隊を阻止することもできず、英国側はやむなく合同遠征を提案する。スイス側は、これまで受けた度重なる妨害、そして51年の踏査隊にスイスから一名を参加させてほしいという懇願を、にべもなくはねつけた英国に対して、憤怒の念を抱いている。  
  
しかし、英国の持つクーンブ氷河の情報は、あまりにも貴重だ。スイスは譲歩した。両方の国から各6人づつ、合計12名で隊を編成することで合意に至ったが、英国側は、あくまでもスイス隊を従属隊としてコントロールすることに固執した。そして、とうとう、隊長の人選で、交渉は決裂した。
  
1951年が暮れようとしていた。
決裂のあと、シプトンの内で何かが弾けた。
それは、民族を超えた、山男としての気概か。あるいは、争奪戦の果てに見失っていた、フェアプレーへの覚醒だったのか。
  
年が明けた1月早々。シプトンは、敵に塩を届けるべく、チューリッヒに飛んだ。クーンブ氷河の情報と写真のすべてを、スイス側に差出した。そして4月、出発をひかえたスイス隊に、激励の電報を打った。


 続きはこちら
 トップページへ
Sponsored Link

検索

カスタム検索

サブコンテンツ

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。